Home
サイトマップ
茶道教室の御案内
東京茶の湯倶楽部について
リンク集
お問い合わせ
東京茶の湯倶楽部top
>
初心者のための茶の湯ガイド
> 茶の湯の歴史
初めてこのHPを訪れた方へ(read this♪)
初心者のための茶の湯ガイド
茶の湯の魅力
茶の湯の歴史
わび・さび
和敬清寂・一期一会・たぎる心
お道具
茶菓子
懐石料理
茶室
お茶事・お茶会
色々なお流派について
御稽古の内容
お免状について
正座をしない茶道(「立礼」)
茶の湯の歴史
茶の湯の芽生え
茶の湯の芽生えとしては、臨済宗の栄西が茶の種を中国から日本に持ち帰って来た所から始まります(それ以前に遣唐使等によりもたらされてもいたが普及せず) 栄西は、時の鎌倉幕府三代将軍の源実朝の二日酔いに茶を勧め、酒毒に効く養生の薬として(「喫茶養生記」)認知を広げて行きます。 栄西を始め、鎌倉時代は禅宗が一世を風靡した時代でもありました。その為に、茶は、禅宗の寺院や禅宗を保護する幕府を始めとする上流の人々の間で飲まれて行きます。
茶の湯の黎明期
鎌倉時代後期から南北朝時代になり、茶の存在も広く認知され、人々の社交に用いられる様になってきますが、その目的は「闘茶」と呼ばれ、 どこのお茶の何の銘柄か?と言う事を茶を飲んで当てるものでした。この「闘茶」は、娯楽・賭け事として非常に流行し (闘茶で有名な人物として室町幕府の実力者であり”婆沙羅大名”と呼ばれる「佐々木道誉」など)、茶の風習を広めていく切っ掛けとなっていった。
茶の湯の転換期
室町幕府の治政が安定するにつれて、幕府と足科将軍の権威を広く知らしめる目的から中国伝来の「唐物」を用いる「書院の茶」が行われる様になり、 それに伴い、享楽的・娯楽的な「闘茶」は衰微して行く事になったが、3代将軍足科義満後の幕府の不安定さや、 8代将軍足科義政時代における応仁の乱や京都の疫病・飢饉などから、個々人の精神的な要素を重視する動きが強まり、一休宗純の影響を受けた「村田珠光」により ”侘び茶”への下地が作られて行く。
茶の湯の大成
東山文化の興隆と相反する様な形での室町幕府の衰微は、戦国時代への切り替えを意味する事にもなったが、その戦国の世を全国統一に向かって駒を進めたのが 「織田信長」であった。旧来の権威・権力の打破と共に新しい価値観の創造を念頭に置いた彼の行動や施策により、「茶の湯」にも注目がなされ、 一つの政治的なリアリズムとして「茶の湯御政道」と言う形での脚光を浴びてくる。その際に、信長と繋がりの深かった堺の「今井宗久」「千利休」らも 注目を集める事になっていく。1582年の本能寺の変による信長の横死により、豊臣秀吉がその統一事業の後継者となったが、 信長の「茶の湯御政道」も基本的な部分は踏襲されつつも、南蛮文化の影響や秀吉自体の派手好みな性格と相俟って、独自の茶の文化を形成していく (「黄金の茶室」や「北野大茶会」など)。 他方、その派手派手しさとは別に、豊臣政権における「茶の湯御政道」の実質的な推進者である「千利休」により、「村田珠光」以来の”侘び茶”にも深化が見られ、 「楽茶碗」や「棗」などに代表される「利休形」の創作や、限りなく空間を狭くする「小間の茶室(妙喜庵待庵)」の追求などが行われ、禅宗の考え方を取り入れた 精神的な支柱・深みを帯びた「茶の湯」の追求が行われる事になり、現在に繋がる”一つの形としての茶の湯”の誕生を見る事になった。